あけましておめでとうございます、ではなく、寒中お見舞い申し上げます、ですね。
年賀状を書かねば、作らねば、やっぱりイラストレータを買っちゃうか、でも高いしな〜、なんてのんきに考えていた12月半ばの夕食時に母から電話が入り、こんな時間になんだろうとでてみると、父でした。久しぶりに聞く父の声はものすごく明るさを装っているのが分かりました。そして内容はお母さんが倒れた。くも膜下出血や、と。
こうゆう時って、何も考えられなくなって、でも電話だから何か話せばならないことだけは分かっていて、おもわず笑ってしまいました。情けない娘ですが、父も少し笑ってました、で、最悪や、といいました。虚勢か本気かしりませんけど、面倒かけやがって、といった調子。一瞬にして腹が立ちました。
私、あんまりいい子ではなく、人間が小さいので昔の恨みみたいなものをやっぱりまだまだ引きずっていて、父はおおいに苦しんでほしいと正直思いました。だから行くのはやめようかとも思ったのですが、何度も何度も電話してきては誰かに話していないと気が収まらない様子で、最後には「すぐ来てくれへんか」と言うのです。結局、その一言で感情は棚に上げてかっぺさんをかついで飛んでいったのでした。当時、夫はアメリカでかれは携帯電話を持っていなくて、私は携帯電話のみで実家はネット環境がなく、私は車の運転もできない、というなんとも最悪の状況。それが功を奏したのか、「母がくも膜下出血で救急車で運ばれてICUに入ったっきり予断を許さない状況」てな連絡のみで音信不通になってしまい、夫が出張を切り上げて帰国するに至ったのでした。
それから今までの三週間、いろいろありましたが母は良性のくも膜下出血と診断され手術することもなく無事退院しました。私は何度か実家に行き、毎日、面会に行き、必要なものをせっせと運び、母の代わりに大掃除をしました。かっぺちゃんはその私に一度もぐずることなくついてきてくれました。この方向音痴の私が新幹線や乗り換えでおたおたしているとき、ぴたっと足にひっついてじっと待っていてくれた。そして余裕ができたときに靴を脱ぎたいとかみかんを食べたいとか要求をしてきました。
無理矢理な成長をとげてくれたかっぺさん、ありがとー。

大晦日の富士山。自由席はすきすきでした。
夫が様子を見にきてくれたときにかっぺちゃんと三人で近くの海岸に行きました。そこは小さい頃から折にふれ通っていた海岸でテトラポットに潮のにおい、松の木、貝殻、防波堤のくぼみ、それらを見て、感じていろんな思い出が走馬灯のように流れました。
こんなことがなかったら三人でここに来ることはなかったかもしれないと思うと、不謹慎だけど母に感謝。この海を見ていた18歳までの自分は信じられるものを探していたかわいそうな(自業自得です)女の子だったな。
母の状態が安定したのでクリスマス前に一時帰宅。ワインやケーキが好きな夫は絶対外せないとばかりに元ディフェールのパティシエあじきさんの新しいお店へ直行!

友人から手作りのシュトーレンを今年も頂きました。うすーく切って少しずつ食べるのです。ありがとう。
↓年が明けて、何もないお正月。実家にお気に入りの絵本を置いたままにしているので、あまり見ていなかった絵本が新鮮だったらしく、それから現在もこの「ころころ」がお気に入り。

年末、早めに夫の実家に帰る予定でしたがそれもなくなり、年賀状も切手にかわり、カレンダーも作れずなだれこむように新年になりました。今年は「捨てる」「磨く」ことをモットーにがんばろうと思います。何を捨てるか、何を磨くかはいろいろ、いろいろということで。
そしてかっぺちゃんを預ける為の面接はキャンセルをしたものの、気づけば年明けの予約の説明会の予約の電話をすることも忘れていました。今年は幼児教室にいれようと思っていたけれど、それもだめかもしれません。なんせまだ授乳していますから。ふっふっふ。(デパートの授乳室から靴を履いて堂々と出て行くかっぺちゃんは違和感があるんですけど、本人認識してません。とほほ。)

退院してから毎日母に電話をしています。パートタイムもボランティアも体操教室も山歩きもお料理教室も行けず、お友達とも会えない生活になったので、話し相手も必要かと思ってのことです。
それでも全くの後遺症無しに誰の介助も受けずに生活できるのは幸運なはずなので、しばらくはゆっくり体を休めて少しずつ外に出かけて欲しいなと思います。